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ずぼら人間のブログ.技術系ブログにしたかった何か

5年前の今日

どうも,お久しぶりです.

皆さんもお元気でしたでしょうか.

 

このブログ,更新は2,3か月に1度くらいなのですが

アクセスを見ると平均して日に10人くらいの方々に見て頂いているようで

なんだか更新していないことが申し訳なく思ってしまいます.

(だからといって頻度が増すわけではないですが)

 

見て頂いてる方々が一定の人たちなのか

それともgoogleとかの検索結果などにそれなりに引っかかる記事を書けているのか

そこら辺はよくわかりませんがいつもどうもありがとうございます.

 

 さて,本当は近況報告としてタイトルを付け

その中の小話としてちょっとだけ書こうと思ったのですが

書いてたら5000字くらいに膨れ上がってしまったので一つの記事としてまとめてしまいます.

 

今日は毎年のあの日だということで

地震があったときのことが書きたくなったので書きます.

本当はずっと何かにまとめたいなあと思ってたんですけど

タイミングが無いのと腰が重いのとで結局5年も経ってしまいました.

 

これは私の地震の体験談です.

それ以上でもそれ以下でもありません.

 

私は東北地方でっかいところ出身でして

地震があった時はそれなりに揺れましたし,色々ありました.

 

当時は高校を卒業して大学の合格発表が終わった後でした.

合格が決まって引っ越し先とかも決めた後にすぐ起こった地震だったもので

高校やら大学やらに電話したりwebページを見たりしてました.

無事大学には入学しました.

 

地震が起こったのは2次試験の後期の前日で

後期を受けに行っていた人たちが前乗りした先で帰られなくなって色々大変だったという話をそれなりに聞きました.

ホテルが無料で宿泊を延長してくれたりという対応もあったようです(というかそういう対応がほとんどだったのではないかと思いますが).

 

地震が起きた時は母と一緒に近所の祖母の家に遊びに行ってました.

一番大きい地震が起きる前にもそれなりの地震があって,当時僕は

「またデカいの来たなあ」

くらいに考えて,のんびり玄関を開けに行ってました.

 

でも長かったんですよね.だから母もやばいってなったのでしょうか

絶叫して僕を呼んでたような記憶があります.

戻ると即座に母が僕のことを抱え込んで頭の上に座布団重ねて

その上に母が覆いかぶさるようにして揺れが収まるまでじっとしてました.

 

その時僕の中で一瞬「いい年して母親に守られてなるものか」

みたいな気持ちが芽生えて,逆に母に覆いかぶさろうとしたのですが

「伏せてろ」だか「じっとしてろ」だか忘れましたけど怒られて

「ああここでは守られてなくてはならないのだなあ」と思った記憶があります.

 

揺れはかなり長かった記憶があります.具体的な数字は忘れました.

揺れがおさまると母は妹を高校に迎えに行ったり自宅の様子を見に行ったりと

祖母宅から車を走らせて行ってしまいました.

 

僕は祖母を一人にしておくわけにもいかなかったので祖母宅に残り

後に妹も祖母宅で合流し僕と祖母と妹で祖母宅で待機ということになりました.

ぶっちゃけめちゃくちゃ不安でした.そんなものかもしれないですが.

 

齢18の男が16の妹と80手前の祖母二人に囲まれたら

そりゃ二人を守るのは僕だろう,という気持ちはあったのですが

何かあったときにそもそも守る術や知恵は自分には無いだろうなとも思いました.

特に車がないのが本当に不安でした.地震の後に車で移動することの是非はとりあえず置いておいてください.

余震の可能性も十分にあって,築20年以上の祖母宅も改修に改修を重ねており

「次デカいの来たら家潰れて全滅かもな」

と脳裏を過った時はもう死ぬ思いでした.人生であそこまでリアルに死を実感できる瞬間は今後そうないと思います.

 

とりあえず近所の人を頼りました.

高校生と老人だけでは不安なので一緒にいさせてもらえないだろうか

みたいなことを言ったか言わずか.

祖母が近所づきあいをちゃんとしていて僕も顔がしれていたのでここら辺は助かりました.

でも1時間くらいで祖母が「ご迷惑になるから」ということで祖母宅へ戻ることになりました.当時は「何言ってんだこのばばあ」くらいの心境だったと思います.

大人を頼るところを一つ失ったので参ったなと途方に暮れました.

 

そしてその後どこから情報を入手してどうやって連絡を取り付けたか忘れたのですが

小だか中学校の先生に電話で「中学校が避難所になってるから連れて行ってやろうか」って言われたので喜んで頼みました.

中学校が避難所にしていされていたことは知ってたのですが

足腰の悪い祖母を連れて徒歩で中学校に向かうのはそっちの方が確実に危険だろうと僕は判断していたのでそういうところに行けなくて困っていたところでした.

だから車(と運転できる人)が欲しかったというのもありました.

 

しかし祖母は「隣組の人が来るから家を離れられない」と拒んできました.

当時は「何言ってんだこのばばあ死ぬ気か」くらいの心境だったと思います.

父上にこのことを話したらそれも一理あるとのことだったので僕の中ではどっちもどっちという結論です.

中学校に行ったのが午後5時だか7時くらいで真っ暗だった記憶があります.

広めのテニスコートがあってそこにテントが複数張られていて

ラジオの音が流れていたり,おそらく学校で働いていたのであろう先生方がテントの中で話をしていたり,という光景でした.

大人はたくさんいたので僕的にはだいぶ安心でき

携帯で友人からのメールに返答したり逆に安否確認をしたりする余裕も出てきました.

大学に進学して関東だったかその周辺に引っ越していた高校の先輩からメールが来ていたのが印象的でよく覚えています.

 

そしてその後父親から連絡があって中学にいる旨を伝えて

逆に自宅はめちゃめちゃで住める状態じゃないから市役所に行くぞと言われ

あれよあれよと言う間に市役所に行きました.

 

市役所では避難してきた人たちとか

炊き出しに追われる人たちとかでごった返していました.

僕も何か手伝えないかと思って顔を出したのですが,とても僕が手伝える雰囲気ではなくて諦めたのを覚えています.一瞬で自分が足手まといになるのを悟りました.

 

携帯の充電もままならないのでtwitterとかもあんまり見れないし

ましてゲームや漫画も無いしで暇だったのと

何もしていないことへの焦燥感みたいなものもあったりして

「この地震の体験を紙に書き留めて後でブログにまとめよう」

って思って市役所にあったペンとメモ用の裏紙を拝借して日記風の何かを書いていました.でもこれは2日で飽きて,紙もなくしました.

そしたら後日ニュースで僕と同じことをしてニュースで紹介されているのを見て「ちくしょー続けておけば良かったなー」ってちょっと後悔した覚えがあります.

 

市役所暮らしは5日~10日くらい続いた覚えがあります.

自宅は家具という家具が全て倒れてめちゃめちゃになっており

「とりあえず外枠だけは無事」みたいな状態になったので復旧作業に時間がかかりました.

あと電気が復旧するまでにそれくらいかかった気がします.

 

電気が復旧した時

外に出て道路のずっと向こうから電気が点いていくのを見たときは

そこに希望を見ました.

 

電気の復旧後には自宅の復旧も終わっていたのでとりあえず帰宅はできました.

というか祖母宅は普通に建ってたのですが何でそっちに行かなかったんでしょう.

原因の一つに家のすぐ上が崖になってたっていうのがあったと思います.

 

市役所暮らしをしてた時はとにかく暇でした.

だから日中はずっと市内をふらふら散策してました.散歩は好きだったので.

ガソリンスタンドに行列が出来ているのを見たときは「日本の終わりかな?」ってちょっと思いました.

多分未来人が来て「この後日本は潰れます」って嘘をついたらコロッと騙されたと思います.それだけ渋滞という現象が珍しい田舎だったというのと,大勢の人が一つのものを求めて行列を為すという状況に感じるものがあったのだと思います.

 

あとコンビニも店内がめちゃめちゃで営業どころじゃなかったのですが

日持ちのする商品をカートに並べて青空店舗を経営してました.普段では考えられない金額で売られてました.

実際のところは知らないですが,儲けを考えている余裕すらなかったのかなあと思ったり思わなかったり.上からの指示とかがあったのかもしれませんが.本当のところは知りません.

 

あと,僕の実家で猫を飼っているのですが(プロフィール画像のやつです)

地震があった当時は自宅にいたらしいです.(母談)

だからめちゃくちゃになった自宅を見て母は猫は助からなかっただろうと思ったそうで,実際数日姿が見えませんでした.

実際のところは無事で,なんなら今も健在なのですが

空腹に耐えられなくなって姿を現したときは非常に安堵しました.

放し飼いしてる猫で

家に人がいなくても出入りできるように窓をちょっと開けてある場所があるのですが

地震を感じてそこから逃げたのではないか,というのが母の考察です.

 

自宅に戻れたあとも阿鼻叫喚でした.

まず給湯器が使えなくてしばらく風呂に入れませんでした.たしか地震で故障したんだっかで風呂にお湯が溜められない.

オール電化だったかガス給湯器だったかを使ってる知り合いの人に

お風呂に入れてもらった時は天国見つけたりという気分でした.

人生であれ以上に気持ちのいい風呂は今後あるかどうか.

 

あとスーパーの品物が全然ない.

ガソリンが無いとか色々理由はあったと思いますが

品物がスーパーに流れてこなくて輸入品らしきトマトとかスパムとかの缶詰がどっさり並んでいました.

缶自体がちょっと錆びてたので,結構前から貯めてたものっぽかったです.

在庫処理というよりかは,この時のための備蓄っぽかったです.真偽のほどは知らないですが,もしそうだったらスーパーさすがだなあという感想です.

ちなみに僕はこのとき初めてスパムを食べました.美味しいですね.

 

あと,父上は地元のローカル新聞社で働いてるもので

地震の次の日からばっちり働いてました.

最初聞いたときは「マジかよ」って思いましたが,こういう時が父上の(ひいては父上が所属する会社の)出番なのだなあと思うと少し誇らしかったです.

恨み言とかは特に無くて,最終的にはそりゃそうかと思ってました.

そんで地震起きた日だったかに父上に言われた言葉が印象的でよく覚えていて

「こんな時に不謹慎かもしれないが,こんな経験滅多にできないからよく回りを見ておけよ」

みたいなことを言ってました.「楽しめ」とかも言ってたような気がします.僕はずっと散歩してました.

二度と経験したくないですが,確かに次何かあっても前よりかは冷静に行動できる気がします.二度と経験したくないですが.

 

市役所暮らしをしていた時の食事もなかなか印象的でした.

覚えているのは

  • 豚汁のような汁物(忘れた)
  • ロールパン(一人2個まで)
  • 水だけで炊けるごはん(冷めると驚くほど不味い)

配給という制度に初めて触れました.暴動とかは起こりませんでした.

みんな食えるだけマシか,みたいな心境だったのかもしれません.あくまで想像ですが.

ごはんとパンは地震から1日,2日くらいしか経ってない時の食事だったと思います.

割と早いうちからそれなりの食事に切り替わっていった記憶があります.

 

あと僕は内陸に住んでいたので津波の被害は無かったですが

僕の親戚はそれなりに影響あったようです.

某地方都市に住んでいるおじは仕事場に水が迫ってきたって話してました.

あとおばの母だったか祖母だったかが津波で亡くなりました.

夜中に母親と妹と3人でテレビにかじりついて

延々と流れる安否の確認が取れた人リストとにらめっこしてました.

最終的に遺体は見つかったようです.

津波の被害者の話になると「遺体が見つかれば御の字」って雰囲気になりますが

正直こんな絶望的な話もないなって思います.

もちろんそういう状況だったのでしょうけど.海に流れてしまえば見つけるのは困難でしょうし.

 

あと僕の見える範囲だとあんまり語られないことなのですが

当時のローカル局のニュースキャスターの方々も悲惨でした.

上記の安否の確認が取れた人リストを延々と読み上げていた方は

人手が足りないのかずっと一人で何時間も読み上げて

髪の毛はボサボサだし声は明らかに枯れてだみ声になってました.

 

一番僕の中で悲惨だったのは

沿岸部出身の方が津波で流された故郷のリポートをしていた時ですね.

最初は普通にリポートしてたんですけどね.段々涙声になってきて

最終的には泣き出してリポートも止まって「無理にしゃべらなくていいよ」ってスタジオから言われてました.でもしゃべるんですよね.もう見てられなかったです.

本当にこの一件はやばくて今でも思い出し泣きします.

 

とりあえず思いつく限りのエピソードを並べてみました.

途中から時系列もへったくれもなくなってひどい文章になってましたが

ここまで読んでいただけた方も途中でここまで飛ばして来た方も

ご一読いただきありがとうございました.

 

思い出そうと思えばまだまだ出てくると思いますが

とりあえず今日はこんなところで.

 

ここからは感想ですけど

(これも月並みなセリフですけど)自然に対する無力感は本当に感じました.自然とは本来畏怖の対象なのだなあと.

あとamazarashiというバンドに「祈り」という曲がありますが,その中の一節で

「僕らは無力だ」と暗闇に祈るのが 本当に無力とは信じないぜ

ってありますけど,そうだといいなあくらいには考えるようになりました.

これは震災から1年くらい経ってからの話です.

 

さて,まだまだ書きたいことはたくさんありますが

今日はこの辺にしておきましょう.

皆さまが息災でありますように.

 

それでは.